Webマガジン■AH!■

北陸5支所(新潟、長野、富山、石川、福井)の建築・まちづくり等に関する話題をお届け

AH! vol.90 - 2025/7《from 長野支所》

佐倉 弘祐/信州大学工学部建築学科 助教

 都市における空間は、制度的に計画・整備されることで生まれるが、その意味や価値は、日々の使われ方=実践によって絶えず書き換えられている。本稿では、スペイン第四の都市であるセビリア市内に位置する二つの公共空間、Calistenia street workout gran plaza(以下、Calistenia)とHuerta del Rey Moro(以下、Huerta)を対象に、人・物・植物が関係し合う「共在の風景」がどのように生まれているかを考察する。

□ 意図された場所、逸脱する使い方
 Calisteniaは、近年の若者の身体活動への関心に応える形で行政が整備した空間である。運動器具のバリエーションが豊富で、個々人が思い思いにトレーニングを行う姿が日常的に見られる(写真1)。一見すると規律的な利用が想定された場所のように見えるが、夕方以降にはこの場がまったく異なる様相を呈する。近隣に教会や学校があることから、放課後や週末には子どもたちが大勢集まり、器具を遊具として、本来とは全く異なる目的で用いて遊ぶ光景が広がる(写真2)。制度的に設計された空間が、利用者の創造的な実践によって多義的な風景へと変容している点において、この場所は都市の中の「ひらかれた余白」となっている。
 一方のHuertaは、制度的整備とは対照的に、市民の自発的な占有と運営によって成立してきた空間である。2000年代初頭、住宅開発の予定地であった空き地を地域住民が共同で耕し始めたことにより、農作業を中心とする共同の空間が立ち上がった。現在では門が設けられており、外部との関係性は単純ではない。イベントなどを通じて新規の参加者を迎え入れようとする一方で、観光的な視線や場の消費に対しては慎重な姿勢が見られ、選別的な一面もある(写真3)。しかし、そうした人間関係の複雑さ以上に、この空間において特筆すべきは「物」の存在感である。区画ごとに育つ野菜や果樹はもちろん、土に根を張って自由に成長する植物、手づくりのピザ窯、木製の遊具、古びた屋根付きの小屋、子どもが乗って遊ぶ乗り物など、多種多様なものが空間にあふれている(写真4)。それらは単なる背景ではなく、人と並ぶほどの強度をもって空間を構成し、使用されることで意味を変化させていく。Huertaは、人・物・植物が交錯し、互いの居場所を交渉しながら生きる「共在」の空間である。ここでは、空間の意味は特定の用途に還元されず、関わり合いの中で日々再構築されている。


写真1 Calistenia street workout gran plazaの日常の風景


写真2 Calistenia street workout gran plazaの放課後の風景


写真3 Huerta del Rey Moroに設けられている門


写真4 Huerta del Rey Moroの多種多様なものが溢れている風景

□ 都市の余白に編まれるリズムと関係性
 両者に共通するのは、空間が制度的に与えられたものとして存在するのではなく、人々の関わりと創造的な実践を通して意味づけられているという点である。Calisteniaは制度的に整備されたが、利用者の自由な使い方によって意味が拡張し、Huertaは制度化を拒みながらも独自のルールと美学によって多様な実践の可能性を開いてきた。制度と実践が交差する地点には、偶発的な共在性や関係性が生まれ、都市空間は単なる場所ではなく「出来事の場」として立ち上がっていく。
 さらに注目すべきは、これらの空間が単に空間的に「共在」しているだけでなく、時間的にも複数のリズムが重なり合っている点である。朝は高齢者の散歩や水やり、昼は子どもたちの遊び、夕方は若者のトレーニングや音楽活動といったように、同じ空間が異なる時間帯に異なる使われ方をされることによって、日常の中で多層的な風景が編まれている。こうしたリズムの交錯こそが、空間を「生きた場」として持続させる鍵であり、制度では捉えきれない都市の潜在力を示している。
 このような空間は、単なる自由や多様性の象徴ではない。むしろ、制度による秩序と実践による創造がせめぎ合い、重なり合うことで、人と人、人と物、物と植物が織りなす「共在の風景」が生成されている。その風景は、都市における余白=規範から少し外れた空間の中に、最も豊かに立ち現れる。都市を生きるとは、その余白に身を置き、他者とともに空間を作り変えていくことである。