《福井》『福井城を「葵(あおい)城」と呼ぶ記事を追って…』-昭和はじめの古新聞が語る「福井城の別称」について-
AH! vol.88 - 2025/1《from 福井支所》
櫻川 幸夫/一級建築士事務所 ㈱アーサ
江戸城が別称「千代田城」とも呼ばれていた昭和初期に、福井城を「葵城」と呼んでいた史実をめぐって、令和3年から進めてきた独自な調査内容とその普及活動を報告したいと思います(図1)。
ちょうど令和3年のコロナ禍での事でした。自宅で、お盆で休んでいたところ、一本の親戚からの電話。何ともお父様が収集されていた大正~昭和の「新聞スクラップ帳」を届けたいとの事でした。頂いたものを秋風に、ひとつひとつページを透かして読むと―― ――『葵城の今昔と将来を聴く』大阪毎日新聞。(図2)
福井藩士要人の方々とともに、福井市助役、福井警察署長様はじめ、福井図書館館長で郷土史研究家の石橋重吉氏ら14名が、福井城北の通称“お泉水”、松平別邸での7月7日から6日間にわたる会談でした。昭和11年のことです。
そこでは、これを機会に城址公園、都市の中に広場を作ってほしい。また石橋氏からは、「本丸に昔のすがたをしのぶ櫓一つないのは、福井市の恥辱ですね。」と佐竹松平侯地所部の方と語っていたのは、4日目の事です。石橋氏は遡ること7年前の昭和4年、現在の福井県庁正面に立つ「福井城址碑」(図3)を訳されています。(『若越愛吟愛誦集』印刷所 三秀舎)
さて、明治33年のこの碑文(図3)は、当時の漢学者三島中州(ちゅうしょう)によるもので、そこには関ケ原の戦いの後、家康が息子秀康に、7万坪68万石の城を与え、その家康天下普請の全國第一号として、「徳川東照公…(中略)…、公自ら牙城を経始す」と彫られてあります。この“経始”とは辞書(諸橋)によりますと「家屋を建てはじむ、経は地を測量するの意」とあり、公自ら本丸・二の丸を縄張りしたと読めます。
また、『葵城に因みて、葵公園と命名せり。(福井市史 昭和16年刊)』 4000坪の広場(現中央公園)がこの会議の2年後の昭和13年6月に完工しました。クジャク2羽が人気だったそうです。
おわりに、この春「葵城」のことが、公刊本(県・市)にも昭和9・10年に載っていた事から、追録発刊しお伝えする事にしました。ご高覧下されば幸いです。(図4)
私たちは幸運でした。“古新聞”の集者、お父様は美術の先生で、お母様の里は鯖江市三峰村の旧家である山崎久助宅。江戸期文化13年(1816)8月に、福井藩主松平公が総勢237人で御巡覧の時、小休したとの記録があり、ゆえに「葵城」記事を大切に保管されていたのかと想像しています。
新春、テレビの水戸黄門、暴れん坊将軍の「葵ご紋」がより身近に感じられる福井のお正月です。
色々のご教示をいただいた方々にお礼申し上げひとまず報告とさせて頂きます。