《石川》国指定重要文化財となった奥能登の中谷家住宅
AH! vol.80 - 2023/1《from 石川支所》
平山 育男/長岡造形大学造形学部建築・環境デザイン学科 教授
・中谷家住宅とは
奥能登の民家と言えば、輪島市の上時国家、下時国家、珠洲市の黒丸家住宅が著名であるが、この程、能登町に所在する中谷家住宅の主屋、塗蔵などが新たに国重要文化財として指定された。
中谷家は昭和40(1965)年代における緊急民家調査では、主屋屋根が桟瓦葺に改められていたことなどから調査対象から漏れた。しかし、昭和60(1985)年から石川県文化財保護審議会によって実施された調査によって、主屋は江戸時代中期後半における建築と推定されたことで、主屋や塗蔵などが一括して翌年に石川県指定文化財とされた。中谷家は以後、奥能登における民家建築を考える上で重要な建物の1つであることが認識されるに至り、今般における建築調査の結果、本年9月に国の重要文化財となった。著者らは中谷家住宅の調査に関わることで、この住宅が奥能登における民家建築の展開を考える上で、極めて重要な建物であることを知るに至った。本稿では建物のその歴史と性格をお伝えするものである。
・中谷家住宅の来歴
中谷家は江戸時代前期の寛文(1660〜72)年間、加賀藩士の出である城(じょう)家から左近(さこん)を養子に迎えたことが近世の当地における立場を確立させた。この頃、中谷家の位置する黒川村では170石余の村高が、草分けとなる中谷家を始めとする本百姓12人に12石余が均等に割り振られた。ところが享保(1716〜36)年間に中谷家の持高は他の2倍を既に越えて村内一となった。そして18世紀後期以後、中谷家は庄屋職を世襲し、幕末期には100石を越える持高を記録するに至った。中谷家がこれだけの土地を集積するに至ったのは農業経営に加え、薪や炭の生産及び販売、そして質商売を行ったことが大きな要因として考えることができる。
・主屋の来歴
現在の主屋が建築されたのは文書類から中谷家が村中で地位を確立した享保6(1721)年と判断できる。当初の建物は能登における一般的な「九六間(くろっけん)の家」(桁行9間、梁行6間の規模となる)を踏襲しながらも一回り大きな規模で、座敷は表側に部屋列を並べる続座敷であった。そして持高が100石に迫った天保4(1833)年に主屋の「継出」が行われた。増築である。主屋は上手に2間、背面へ1間程拡張された。その結果、座敷構が整備されて鍵座敷の構成となり、当地の代表的な大型民家である時国家などに準ずる形式を中谷家は獲得した。
上述した主屋の建築及び改変は2つの興味ある事実を示す。
1点目は民家の増改築が決して思いついたかのように行われたのではなく、持高という経済的な裏付けに基づき、加えて庄屋などの家格を正確に反映した結果である、と言う点である。中谷家で言えば主屋の当初建物は標準規模を踏襲しながら、それらを一回り上回る規模で先ず建築がなされ、それが100石となった時点で「待っていました」とでも言うような頃合いで、周辺の大型民家に準じる規模と構成を持つ形に増改築を行ったことである。
2点目は、中谷家が最終的に獲得した大型民家が持つ鍵座敷の形式が、実は中規模な「九六間の家」の発展形として位置づけられることである。つまり、鍵座敷の形式はある日突然に発生したのではなく、農家の経済的な展開とそれに応じた構成に基づき案出され生み出されたとすることができるのである。
・魅惑の塗蔵
中谷家にはもう1つ、見落とすことのできない建物が存在する。「塗蔵」である。入口の金具に明治8(1875)年の刻銘を見ることができる。内部全体を朱漆で仕上げたもので、壮観の一言に尽きる。加えて2階への階段踏面は滑り止めの鮫肌状となるが、これは他には見ることのできない生漆に卵の白身を混ぜたとする仕様である。文字と写真では筆舌を尽くせない、そして物を収納することを前提としない静寂な空間が、そこに存在する。