Webマガジン■AH!■

北陸5支所(新潟、長野、富山、石川、福井)の建築・まちづくり等に関する話題をお届け

AH! vol.70 - 2020/07/03《from 石川支所》

山崎 幹泰/金沢工業大学建築学部建築学科 教授

石川県野々市市本町三丁目にある喜多家住宅主屋(写真1・2)は、金沢市内の大型町家を明治24年(1891)に移築したもので、加賀の町家の典型的なものとして、昭和46年(1971)に重要文化財の指定を受けています。旧酒造場は主屋の北側に位置し、前蔵、酒蔵、作業場、貯蔵庫、麹室、精米所・米置場で構成されています(写真3)。2019年10月、酒蔵を含む旧酒造施設4棟と土地が重要文化財に追加指定されました。


写真1 喜多家住宅の外観

写真2 喜多家住宅の内観

写真3 旧酒造場の全景/撮影:栗田均      

喜多家は元・越前武士だったとされますが、江戸中期に野々市に来て、菜種油の製造販売業を始めました。嘉永頃には「油屋」を名乗っていました。また、広い田圃を有する地主で、金融業も行っていたと伝えられます。
明治に入ってから、喜多家は酒造業を始めました。明治10年(1877)には喜多次平氏が、「姫菊」「大白瀧」「桃之浪」「八重櫻」4種の酒を製造しています。しかし、明治24年(1891)4月23日に野々市の大火が発生しました。火災前は、「酒庫二棟、米庫一棟、菜種庫一棟、道具蔵二棟」がありましたが、酒庫一棟(酒蔵)(写真4)、菜種庫(前蔵)、道具蔵一棟と仏壇のみを残して、主要な建物を失いました。


写真4 酒蔵の内観/撮影:栗田均 

火災後、冬期の酒造りに間に合うよう、金沢市材木町にあった醤油商田井屋(タイ惣)の家を300円で購入して、同年中に主屋として移築しました。主屋の移築に続き、作業場(写真5)、貯蔵庫(建築時の用途は米蔵)の建築も、酒造りの再開のために同年中に行われたと考えられます。戦前の主要な銘柄は、「大白瀧」と「猩々」で、大正10年発行の『石川県酒造誌』によると、当時の喜多家の製造見込石高は405石でした。これは一升瓶約4万本相当の製造量で、喜多家は地方の小規模酒造業者のひとつでした。


写真5 作業場の内観/撮影:栗田均 

昭和16年(1941)10代次平氏が亡くなり、11代直次氏が当主を継ぎました。ところが、直次氏が未成年だったことから、戦時統制下の生産統制により酒造業を停止させられました。そこで、製造から小売りへ切り替えて店を続けました。戦後は、昭和24年(1949)頃、直次氏が結婚、長男の敬次氏が昭和25年(1950)に生まれ、この頃から酒造業を再開しました。昭和26年(1951)にホーロータンクを購入、翌年に精米機を購入、麹室、精米所・米置場、酒蔵の下屋なども、この時期に相次いで建設しました。昭和33年(1958)7月に清酒製造免許を受け、合資会社「喜多酒造店」に店名を改めました。製造販売する日本酒の銘柄は、戦前から続く「猩々」でした(写真6)。
ただし昭和40年代に入ると、大手メーカーへの桶売りの比重が大きくなりました。昭和45年(1970)、石川県民家緊急調査にて喜多家の調査が行われ、昭和46年(1971)12月に主屋、道具蔵が重要文化財に指定されました。翌47年より主屋の公開を開始したことをきっかけに、昭和50年(1975)頃、酒造業を廃業しました。旧酒造場は公開の対象とせず、酒蔵の一部を貸倉庫とするほかは、ほぼ手つかずのまま、これまで建物を維持してきました。
喜多家の建物配置は、主屋、前蔵、酒蔵が一列に並び、前蔵の脇に作業場が設けられたもので、住居と作業場が別棟になっています。すなわち、住居と作業場が同じ建物にある創業型から、一段階発展した形式で、明治期の酒造場の原型が良好な状態で保存されている点に、特に高い価値が認められます。
喜多家は今後、主屋、旧酒造施設とも野々市市が現所有者から寄贈を受け、市が中心となって、建物の保存修理および主屋、旧酒造場施設を一体とした公開活用に向けて、整備を進めていく方針です。


写真6 日本酒「猩々」のラベル