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北陸5支所(新潟、長野、富山、石川、福井)の建築・まちづくり等に関する話題をお届け

AH! vol.67 - 2019/7/24《from 富山支所》

森本 英裕/職藝学院 専任講師/早稲田大学理工総研 嘱託研究員

□富山藩十村役とは
竹島家は享保15年(1730)より代々富山藩の十村役を務めた家柄である。十村とは、慶安四年(1651)に前田家3代利常によって制度化された役職で、農民の最高職であると同時に武士としての役職も担い、名字帯刀を許された特権階級である。十村は各郡に配置され、改作奉行や郡奉行の指令のもとに数十か村より成る十村組を統率し、年貢収納をはじめとした農事・民政のあらゆる面で農民を取りまとめ、藩との仲介を行った。近世期の身分社会において、農民と武士という2つの役職を兼ねた十村は富山藩を含む加賀藩独自の存在であり、その屋敷構えにも独特の様式が見られる。本学院では3ヶ年に渡ってこの竹島家の修復に取り組んでおり、その特徴について紹介したい。


写真1:竹島家外観

□竹島家に見る「十村様式」
屋敷地は間口58m、奥行70m、周囲には濠が巡らされ、石垣と塀で取り囲まれている。屋敷中央に主屋を配し、屋敷正面の右手に「長屋門」、左手に「御成門」を開けて出入口としている。通常の出入口となるのは長屋門で、近世期には武家屋敷においてのみ設けられた門形式である。そして、御成門は藩主のみが通ることのできる門で、多種多様な樹木と銘石を配した庭園を抜けた先には、「上式台玄関」と「御成座敷」が設けられている。総檜総柾の軸部造作材に幅広の欅の縁板や磨丸太などの銘木が随所に使用され、壁は各室様々な色砂壁や黒漆喰塗りになり、贅を凝らした上質の書院造りの空間となっている。竹島家は藩主の参勤交代や鷹狩の際の休泊所として使用されたことから、このような上質な設えがなされており、武家屋敷が残っていない富山県内では大変貴重なものである。


写真2:御成門

写真3:御成座敷

□一方、通常の出入口である長屋門を入ると右手には米蔵、左手には御成座敷を区切る内庭塀、正面に主屋が配されている。主屋の主要部は明治に入り消失し、明治29年頃に消失前の姿を踏襲して新築された。その後、大正から昭和初年頃に座敷部分、昭和17年に二階部分の増改築が行われている。建物は右手に間口12.7m、奥行21.8mの一部二階建ての居室棟と、左手に間口12.1m、奥行13.2mの平屋建て座敷棟が前後にややずれる形で建ち、共に切妻造の桟瓦葺屋根となっている。また、正面中央に「式台玄関」、右下手には通常玄関の「土間玄関」が設けられ、上式台玄関を含め合計3箇所に玄関が設けられる点も特徴的である。土間玄関を入ると板床の中央に囲炉裏を切った「囲炉裏の間」があり、その奥は広い「台所」になる。式台玄関を入ると賓客を迎える「式台の間」があり、奥はヒラモンと呼ばれる成の高い差鴨居に太い梁を井桁に組み、豪壮な木組を見せるワクノウチの「広間」となっている。こうした豪快なワクノウチは、主に農家に見られるもので、書院造の武家屋敷では見ることのできないものである。上質な書院造による武家屋敷と、豪快な木組みによる農家の特徴を併せ持つ、十村屋敷独自の構成と言えよう。


写真4:豪快なワクノウチによる広間

□修復再生、その先の活用に向けて
本学院では平成29年度より竹島家の修復に取り掛かり、初年度は長屋門、30年度は主屋の修復を行ってきた。そして本年度からは御成門や庭塀の修復に取り組んでいるところである。修復の見所など工事完了時に改めて紹介させて頂きたい。


写真5:本学院22期生による主屋修復の様子

関連URL
職藝学院 竹島家主屋修復の記事 https://shokugei.ac.jp/blog/?p=12040
富山藩十村役宅 竹島家 https://www.takeshimake.com/index.html