《石川》金沢城鼠多門の復元について
AH! vol.72 - 2021/1/6《from 石川支所》
熊田 康也/石川県土木営繕課 課長
1 鼠多門復元事業の概要
金沢城は天正11年(1583)に前田利家が入城して以降、明治2年(1869)まで、加賀藩前田家の居城であり、現在27.5haが国の史跡指定を受けています。
鼠多門は金沢城の西側の郭である玉泉院丸に位置し、鼠多門橋により接続される金谷出丸(現在の尾山神社境内)からの出入口として機能していました。創建年代は不明ですが江戸前期から存在していたことが文献や絵図より判明しており、城内の建物の多くが失われた宝暦9年(1759年)の大火でも失われず、明治17年に焼失するまで存在していました。
石川県では金沢城第3期整備計画に鼠多門及び鼠多門橋の復元・整備を位置づけ、平成26年から実施した埋蔵文化財調査や絵図・文献調査結果に基づき史実に沿った復元を実施することとしました。
工事は平成30年(2018)6月に起工、令和2年(2020)7月に竣工し、尾山神社から鼠多門橋・鼠多門を通り、城内を経て兼六園までが回遊できる加賀藩ゆかりのルートが繋がりました。
2 鼠多門の特徴
鼠多門は石垣の間に設けられた大扉の上に櫓(渡り櫓)が造られた櫓門形式の城門で、櫓は2層となっています。
金沢城には三御門と呼ばれる橋爪門、河北門及び石川門があり、これらは高麗門(一ノ門)と渡り櫓門(二の門)が土塀で繋がれる防御性を備えた枡形を形成していますが、鼠多門は堀(現在は道路)を挟んで位置する玉泉院丸と金谷出丸を繋ぐ場所に位置し、櫓門単独で枡形は形成していません。
建築物としての特徴は、城内の他の櫓門などと同様に屋根は木型を鉛板で覆う鉛瓦、外壁は白漆喰で腰壁には海鼠壁が用いられていることが、明治期に撮影された写真から判明しています。
一般的に海鼠壁の海鼠目地は白漆喰が用いられますが、鼠多門では発掘調査により黒漆喰の海鼠漆喰が出土したことから、海鼠壁は黒みがかった鼠色であったことが明らかとなりました。(写真2)
3 現代の復元(構造補強について)
金沢城の建築物の復元にあたっては、史実を尊重しつつ内部を一般に公開・利用できるための安全性を確保することとしています。そのためには現行同等の耐震性の確保が求められます。
一方で、鼠多門では地盤調査の結果から、櫓の荷重を支持する門柱礎石下部の地耐力が不足していました。また、史実に即した築造を行うためには、現存する遺構礎石を生かして柱を設け、往時と同じプロポーションに復元することが求められました。
そのため、建物の荷重はRC耐圧版(べた基礎)に全て負担させ、礎石に据える門部(通路)の柱には荷重を負担させないよう、門部に渡す大梁の内部に鉄骨補強を行っています。
また、構造計算は限界耐力計算で解析していますが、妻側の壁には制振ダンパーを内部に仕込み、架構としての耐震性を確保しています。
4 夜間景観への寄与
鼠多門の復元にあたっては、同じく整備した鼠多門橋とともにライトアップを行い、夜の金沢の新たな魅力創出を行っています。
照明器具や設置位置の選定においては、著名な照明デザイナーと何度もデモンストレーションを行い、不用意な影が生じず自然と築造物が浮かびあがるよう工夫を凝らしていますので、ぜひご覧いただきたいと思います。